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はんぎり競漕の事始



昭和30年代頃までは、瀬戸の夕凪として知られている遠浅の

北黒田・新立海岸や塩屋・本村海岸で地引網が行われていました。



新立・本村地区と呼ばれている浜集落には、

数軒の網主と多くの網子と呼ばれる漁師がいました。



満潮時になると水平線から網主が所有する機帆船が2艘現れて、

沖に残しておいた袋状の網に繋いだ綱を陸地の網子に渡します。

網子とその家族は干潮になるまで延々と綱を引っ張り続けて、

やがて魚が追い込まれた袋状の細かな網が陸地へ近づきます。



網子の中でも大き目の子供達がはんぎり(木のたらい)に乗って、

大人の胸の水深まで干上がった中州へ向かいます。

地引網で採れた魚を「はんぎり」の中へ入れ、押して陸地へ近づけます。

陸ではおたたさん(魚の行商人) が仕入れを待ち構えています。

新鮮な魚は、その場で酒の量り売り同様に、枡計りで売られます。

枡ですから塩水も多量に含んでいて、売り手と買い手の

微妙な駆け引きで魚の値段が決定していました。

(海が荒れて漁が少ないときは、海水のみに近い)



夏の海水浴や秋の夕涼みでその時偶然居合わせて、

網引きを手伝った見知らぬ大人や子供達にも、

アジやイワシとシロコ(生のチリメンジャコ)が分配されました。

残ったジャコ(イワシの稚魚)は天日で干され、

チリメンジャコとして、ゆであげただけのシロコとして売られます。



やがて高度成長期時代になって、

海浜埋立補償金と引き換えに地引網も廃止され、

「はんぎり」も風呂の焚物になっていきました。



昭和56(一説では48年)年頃になって、
松前町興し事業として、

松前町の風物詩を復活させようという計画が持ち上がり、

松前漁港を兼ねている長尾谷川河口(夫婦橋外海)で

はんぎり競漕を開催しました



始めの数年間は、各漁師がそれまで大事に保管し、

わずかに残っていた多様な「はんぎり」を用いて、

満潮時に松前内港を横断する形で実施しました。

時間が経過するにつれて河口も兼ねている内港は、


潮流が早くなり対岸に辿り着けなくて、港の外へ流される

ハプニングもあり松前夏の風物詩となりました。



時代と共に河川や海の汚染が目立ち始めたため、

義農公園プールや学校プールへ実施場所を移転しました。



「はんぎり」もプラスティック製に変わり、

小・中学校生徒中心のイベントのはんぎり競漕となりました。



「はんぎり競漕」は、佐渡の「たらい船」のような櫂(かい)はありません。

ただただ全身の前後屈伸バネで進みますので疲労困憊します。



2002年の今年はトライアスロンに進化して塩屋海岸での復活です。





ごろびつ



「はんぎり」と並んで「御用弼(櫃)」があります。

「御用弼(櫃)」は「ごようびつ」が訛ってごろびつと読み、

おたたさんが浜で買い上げた魚を町まで頭上で売り歩くときに、

使った運搬道具で、京都の大原女のような小さな「盥(たらい)桶」です。



1602年頃に、松山城築城の石や瓦をこの道具で運びました。

その時の功績によって「盥」に御用の焼印が押されており、

江戸時代の松山藩では通行自由・租税免除が保障されていました



「おたたさん」の移動手段も変遷し、

歩行から鉄道利用になり、最近は自動車運搬です。



その一部は伊予郡砥部町産出の砥部焼販売権を得て、

遠く北海道や樺太・伊豆諸島までからつ船で行商販路を広げ、

帰路船倉には現地で海産物を購入して持ち帰りました。



それが今や全国の70%の生産量を誇る海産珍味製造業へと発展しました。

しかし、商標権の確立には至っていないのが残念です。



皆さんがビールのつまみ
食べている珍味は、松前の珍味です。

それを詰め直して、あなたの街の商店の名前で売られているのです。

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